磐井の乱が古代の重要事件として注目されるようになったのは、1950年代前半のことである。当時、林屋辰三郎・藤間生大・門脇禎二らは、磐井の乱について、ヤマト政権による朝鮮出兵が再三に渡ったため九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したものと位置づけた。
これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が、1960年代に入ってから坂本太郎・三品彰英らから出された。ただし、それらの主張は磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかったため、乱の意義に着目した研究が続けられ、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける考えが、多くの研究・検証の結果、通説となった。
1970年代半ばになると、継体期前後に国家形成が進展し、ヤマト政権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、磐井の乱が発生したとする研究が鬼頭清明・山尾幸久・吉田晶らによって相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族による中央政権への反乱だと考えられていたが、これらの研究は、古代国家の形成という点に着目し、乱当時はすでに統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようとしたところ、国土統一を企図するヤマト政権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったとした。
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1978年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、統一的な中央政権の形成時期を5世紀後半までさかのぼらせる議論が有力となっていくと、磐井の乱の意義・位置づけもまた再検討が加えられるようになった。朝鮮半島との関係に着目し、ヤマト政権・百済の間で成立した連合に対し、磐井が新羅との連合を通じて自立を図ったものとする意見、磐井の乱を継体王朝の動揺の表れとする意見、むしろ継体王朝による地方支配の強化とする意見など、磐井の乱に対する評価は必ずしも一致していない。
一方、考古学の立場からは、戦後、北部九州に見られる石製表飾(石人石馬)や装飾古墳などの分布・消長の状況が次第に判明するに従って、それらの九州広域文化圏を磐井の乱と関連づける議論がなされるようになっている。